ぷちトラvol.13唐津くんち特集「昭和の唐津くんち備忘録」 2011年10月発行
平成13年11月3日の神幸祭は大雨にはばまれ、御旅所引き込みができないままに中止となった。「こんなこと今まで記憶にない!」と皆が思ったのだが、実は70年程前の昭和8年にも神幸祭が雨で中止になっていた。反対にその間は何とか無事行われたということで、そのほうが驚きだ。
この写真、戦時中のものか。子供たちの数に対して大人たちの数が圧倒的に少ない。唐津くんちは戦時中、空襲警報を気にしながらも一度も途切れることなく毎年開催された。
福岡市のフクニチ新聞社創立5周年記念事業「オール九州観光まつり」に唐津のヤマ3台が招待された。ヤマが唐津を出るのはこれが初めてで、それを何と呼ぼうか?派遣?遠征?色々議論されたが、「出動でよかっちゃなか?」のひと声で一件落着。消防組を前身とするヤマの組織ゆえ、消防用語の「出動」でみな納得したという話だ。
これは昭和30年、3番曳山「亀と浦島太郎」の塗り替えの落成記念時の写真だが、右側に見える骨組みは? 答えはサーカス小屋。この頃、唐津くんちにサーカス団の興業はつきもので、象やライオン、虎、オットセイなど珍しい動物も登場して、大人も子供も心待ちにしていた。
唐津くんちの御旅所は、唐津神社の御神体が西の浜から上がってきた由縁により、ここ西の浜に設けられた。これは昭和7年の写真で、手前砂山の上の神輿を囲むように海側に14台のヤマが並んでいる。残念ながら、昭和34年以降は新築された小学校の校舎に遮られて、御旅所から海は見えなくなった。
唐津くんちの曳山は「ヤマ」と呼びならわしながらも「山笠」と表記していた時期があり、「山笠取締会」や「山笠保存会」なる組織もできたが、昭和39年に歴史的考証をもとに正式名称を「曳山」とすることになった。
かつて神幸祭前夜は未明まで各町内ごとに“うちんヤマ”を曳いて楽しんでいたが、昭和37年からは前夜祭が正式行事となり、昭和41年以降に現在の「宵曳山」のかたちが出来上がったらしい。
唐津神社の縁起に合わせて旧暦の9月29日が神幸祭だったが、大正2年から新暦を採用。ただし、季節を合わせるために1ヵ月遅れの10月29日と定めた。さらに昭和43年には現行の11月3日に変更。これで地元商店の曳き子たちは月末決済の多忙な時期を避けられた上、祭日で子供たちも学校が休みで、より多くの観光客も集められるようになったのである。
14カ町14台のヤマは各町内で保管した時代もあったが、唐津市の文化会館と同時に曳山展示場も新築され14台のヤマの常設展示が始まった。
今でも唐津っ子の間で語り草となっているのが、海外初出動となったフランスはニースのカーニバルだ。文化も国民性も違う外国ゆえに相互理解は難しいということで、こんなエピソードをひとつ。パレード会場と山車の保管庫の距離が4㎞というのが問題になった(他の国の山車は自動車なので問題なし)。「会場近くに曳山の保管庫を確保してほしい」「それはできない!」「往復8㎞の移動は負担が大きすぎる」「車で引っ張ってやる」「それは無理!」というような押し問答の末、専用トレーラーに曳山を積んで移動することで決着したそうだが、交渉にあたった唐津神社の戸川惟継権禰宜(当時)曰く。「あいどん(フランス人)達の山車は自動車に花飾りして、そいの上かい手を振るだけやっけんが、曳山ばそいと同じくらいに思うちょるっちゃんね。やっけん、プル!プル!(曳く!曳く!)て言うてんわからんとさい、ほんなごて」。何だか笑える。
京都の祇園祭、博多祇園山笠、長崎くんちなどに続き、唐津神社の秋の神幸祭「唐津くんち」も国の指定を受ける。が、この時は前年のニースカーニバルの熱気まだ冷めやらぬ頃で、勢い地元の人々の話題もそちらに集中しがちだったとか…。
この年は自粛ムードで全国各地のイベントが中止されたが、唐津では喧々諤々の末、「天皇陛下のご病気の治るごて、祈願ばしよう!」ということで、ぎりぎりで開催に踏み切った。