ぷちトラvol.11唐津くんち特集「ぷちトラ流 唐津くんちの曳山鑑賞法」 2010年11月発行


9番曳山 武田信玄の兜 木綿町 元治元年(1864) 10番曳山 上杉謙信の兜 平野町 明治2年(1869)
9番曳山 武田信玄の兜 木綿町 元治元年(1864) 10番曳山 上杉謙信の兜 平野町 明治2年(1869)

曳山を持つ周辺の町に刺激されて、うちん町も!と木綿町と平野町が動き出す。「神輿のお供だから、やはり勇壮な武将の兜がいいが、すでに源義経の兜はあるので、われわれは対になって目立ちましょう。そう、おたく謙信、うち信玄ということで」というノリだったかどうかはわからないが、曳山製作にあたっては両町で協議したそうだ。 そして、時代としては幕末から明治にかけてのまさに国の動乱期に、九番曳山、木綿町の「武田信玄の兜」、十番曳山、平野町の「上杉謙信の兜」が相次いで誕生することになった。よく見ると、信玄のほうには金色の立派な鹿の角が2本、謙信のほうには前方にぐりっとカーブした長い1本角の獅子がのっている。というようにそれぞれ特徴はあるにはあるが、やはり兜同士ということで少々見分けがつきにくい・・・? 「うちの曳山は武田謙信と呼ばれたりします」と苦笑いするのは、九番曳山「武田信玄の兜」の運行責任者である正取締の石井隆彦さん。曳山の特徴としては「上下左右によく動く、その躍動感かな」と。血気にはやった若者(わっかもん)が曳山を揺らし過ぎて、年寄りたちから叱られることもたびたびだそうだ。 そして特筆すべきは、その九番曳山が今年26年ぶりに塗り替えられ、ピッカピカのお披露目となることだ。だから、今回のまつりでは、木綿町の曳き子たちの顔は、ほかと比べてとびきり晴れがましいはずだ。陣頭指揮にあたる石井さんの顔もまた。

木綿町で呉服屋と質屋を営む石井さん。今年26年ぶりの曳山の塗り替えという大仕事を終えて、いざ、まつり本番に臨む。


6番曳山 鳳凰丸 大石町 弘化3年(1846) 14番曳山 七宝丸 江川町 明治9年(1876)
6番曳山 鳳凰丸 大石町 弘化3年(1846) 14番曳山 七宝丸 江川町 明治9年(1876)

 

大石町の「鳳凰丸」と、江川町の「七宝丸」は、古代貴族が船遊びに使った鳳凰と龍の頭を持つ優雅な御座船を模してつくられている。江川町の曳山の製作にあたった大工の棟梁と唐津藩絵師がたまたま大石町在住だったため、「われわれの町の曳山と対になる立派な曳山をつくろう」ということで、「鳳凰丸」の登場から30年後の明治9年に「七宝丸」が完成。晴れて”兄弟船“の誕生となった。 なお、十四番曳山として巡行のトリをつとめる「七宝丸」は、「しっぽうまる」と読んではいけない。正しくは「しちほうまる」と読むのだそうだ。

7番曳山 飛龍 新町 弘化3年(1846) 13番曳山 鯱 水主町 明治9年(1876)
7番曳山 飛龍 新町 弘化3年(1846) 13番曳山 鯱 水主町 明治9年(1876)

あれ、なんかそっくり? いえいえ、左が「飛龍」で、右が「鯱」。新町は雲雨を自在に操る水神としてあがめられる龍を題材に選び、船乗りたちが住んでいた水主町では、火難除けのシンボルであるシャチを選んだ。どちらも空想の動物で、調べてみると、龍は「体は巨大な蛇に似て鱗に覆われ、頭には2本の角と耳があり…」。かたやシャチは「姿は魚で頭は虎、尾ひれは空を向き、背中には鋭いトゲを持ち…」とある。 が、「飛龍」にも「鯱」にも胸びれ、背びれ、尾ひれがあり、鱗があり、ひげがあって、どちらも朱色で、胴体はそり返って、どちらもちょっと怖い。というわけで、やっぱりこの2台、よく似ているような・・・。


〈写真協力〉 社団法人唐津観光協会

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