おことわり これは唐津くんちの歴史をひもとくための架空の瓦版です。まるで本当にみたかのような記述でした、もしかしたらこんな光景が繰り広げられていたのかもしれない…ということで、はるか江戸時代後期の唐津に想いを馳せていただければ幸いでございます。
これは一大ニュースです!
唐津くんちの神幸行列に
目にもまぶしい漆塗りの
「赤獅子」が加わりました。
くんちの大革命とも呼べる
このセンセーショナルな曳山のデビューに
「こりゃあ、よか祭りになったバイ」と
唐津っ子たちも大喜びしている様子でした。
ここは肥前唐津の城下町。時は江戸文政2年(1819)9月29日(旧暦)。くんちの神幸行列に初めて加わった刀町の「赤獅子」が城内の唐津神社を出発。大手門をくぐって城下町へ足を踏み入れたその瞬間、ウォー!という歓声が沸き起こりました。「ほらほら、あいがかたん町(刀町)の山車たい!」「すごさ〜上等かね〜!」「漆塗りっちゅう話ばい」「ほんなごて、輝いとる」。沿道の唐津っ子たちは大興奮。その熱い視線を浴びて、かなり誇らしげな「赤獅子」でした。
曳山以前の唐津くんちは
町ごとに趣向がまちまちだった
「唐津くんち」とは、肥前唐津の産土神、唐津神社の秋季例大祭。神輿にのった神様が城下の氏子町を一巡して厄を払い、受け取った一年分の厄を御旅所が設けられた西の浜から海に流して、また新たに海から精気を取り込むという伝統の神事です。
その神幸にお供する山車を氏子町それぞれが奉納するのですが、「赤獅子」以前の山車としては、江川町の「赤鳥居」、塩屋町の「天狗面」、木綿町の「仁王様」、京町の「踊り屋台」、本町の「左大臣右大臣」などがあったといわれています。当時の写真も映像もあるわけではないので、詳細はベールに包まれておりますが、「踊り屋台」は巡行の途中途中で着飾った京町小町たちが屋台に上って踊りを披露するというものだったらしいです。今の曳山巡行に比べると町ごとに趣向がまちまちでバラエティに富んでいたともいえますが、どれも簡易な作りでした。
絢爛豪華な京都祇園祭の山鉾に
カルチャーショック!
ところが、刀町の石崎嘉兵衛なる人物がお伊勢参りの帰りに京都に立ち寄り、祇園祭を見物したことが唐津くんちの大きな転機になりました。山鉾のそれまで目にしたこともないような絢爛豪華さに目を奪われた嘉兵衛。それが代々大切に受け継がれているものだと知って、さらにカルチャーショックを受けます。「そうか、半永久的な立派な山車を作れば、もっともっと人を感動させることができるはず。よし、唐津でも!」と、帰郷するや否や本格的な山車の構想を練り始めます。
題材はどうするか。祭礼神輿を先導する悪霊払いの獅子舞をイメージして、獅子頭にしよう! そして文政2年、ついに完成をみたのが現在の一番曳山「赤獅子」。和紙を貼り重ねて形作った土台に漆を塗って仕上げ、それを木製の台車にのせて威勢よく曳き回すというもので、京都祇園祭の山鉾とも全く違う、刀町オリジナルの独創的な山車でした。それにしてもなんとまあ、漆の赤のあでやかなこと! 当時の群衆がその華麗さに酔いしれた光景が目に浮かぶようです。
唐津くんちの大革命ともいえるこの「赤獅子」デビューを目の当たりにして、「よか祭りになったなあ」とつぶやいたと伝えられるのは、唐津神社の戸川忠俊宮司のひいおばあ様のそのまたお母様。これが、「赤獅子」を先頭に14カ町14台の曳山が連なって勇壮華麗に巡行する現代の唐津くんちの、まさに記念すべき第一歩なのでありました。
冒頭の瓦版でお伝えしましたように、文政2年(1819)の「赤獅子」デビューは、唐津くんちの歴史の中でも大革命といえる衝撃的な出来事でした。というのも、これこそが、国の重要無形民俗文化財に指定されている現在の曳山行事のはじまりだったから。その後、刀町の「赤獅子」に続けとばかり、各氏子町は次々に漆塗りの曳山を奉納。明治中期に損滅した紺屋町「黒獅子」も含め15カ町15台の曳山が勢揃いして今のくんちのカタチが出来上がったのは、明治9年(1876)のことでした。
捕鯨、唐津焼、石炭…
豊富な地場産業が町人パワーの源
「赤獅子」デビュー当時、城下をぐるっと見渡してみると、下級武士たちの屋敷のなんとつましいこと。それに比べ、豪商たちの屋敷は堂々たるつくりです。江戸時代、唐津藩の人口は5~6万人。うち城下には5000人の武士と3000~4000人の町人が住んでいたといいます。戦のない天下泰平の世に出番を失った武士たちはわずかな扶持米(給料)で切り詰めながら暮らし、かたや活発な経済活動で財をなした町人たちは藩政を動かすほどの大きな権力を手にしていました。
唐津の歴史に詳しい唐津市末盧館館長・田島龍太さんによりますと、当時の藩の財源となったのは、「海産物」「茶」「生糸」「紙」、そして唐津ならではのものとしては「捕鯨」「唐津焼」。幕末にはこれに「石炭」も加わります。さらにマンパワーとして、中世に大陸との交易でその名をはせた松浦党の末裔たちがあふれる才覚を発揮し、これらの産業にからんで活躍したことも見逃せません。このように恵まれ過ぎるほどの資産によって、唐津藩は6万石という小藩ながらも大いに潤い、それに伴って唐津の町人たちの力も強大なものとなっていきます。
稼いだお金はええい、
くんちの曳山につぎ込め!
ところが、いかんせん「士農工商」という身分制度は、依然として手かせ足かせとなって町人たちの前に立ちふさがっていました。お上からはぜいたくを禁じられるわ、武士からは借金を踏み倒されるわで、せっかく築いた財も行き場を失っていたのです。
何かこうスカッと心の晴れるようなお金の使い道はないものか、と思案する町人たち。そして、たどり着いた先が、われらが氏神様に奉納する山車だったのです。つまり、「赤獅子」は唐津町人のパワーの発露。彼らは商売でなした財を惜しみもなく、くんちの曳山製作につぎ込んだのでした。その当時、刀町は城下各町の中でも御用商人たちがひしめく勢いのある町だったといいます。
「赤獅子」以後の57年間に、明治中期に損滅した「黒獅子」を入れて全部で15台の曳山が奉納されますが、明治9年(1876)の「鯱」と「七宝丸」を最後に、新規の曳山の製作はパッタリと途絶えます。それはなぜかといいますと、「士農工商の身分制度がなくなったことが、その大きな一因」だと田島さん。つまり、お上からの締め付けがなくなり、町人たちが自分で儲けたお金を自由に使えるようになったから。そういうことなんですね。
文政2年から明治9年までに制作された14カ町14台の各曳山は、これまで幾度となく漆の塗り替えが行われてきましたが、土台は製作当時のまま。こんな立派な曳山を今の時代に一から作るとなると、一体いくらくらい必要なのでしょうか? 聞くところによると、今のお金にすると億単位らしいのですが、いやあ、唐津の町人たちはお金持ちだったんですね。
『肥前国産物図考』(佐賀県重要文化財)
唐津藩士・木崎盛標が江戸時代後期の唐津藩内の産業や生業を詳細に描いた貴重な図録。鯨漁・イルカ・鯛漁、鵜飼、シジミ採り、焼物業、石炭採掘、線香や和紙作りなど今はほとんど伝承されていない当時の唐津地方の産業をうかがい知ることができ、とても興味深い。
上/『肥前国産物図考』第4帖 「小児の弄鯨一件の巻」より
左/『肥前国産物図考』第7帖 「石炭」より
左下/『肥前国産物図考』第7帖 「焼物大概」より
資料提供/佐賀県立博物館
唐津くんちの曳き子たちは、江戸腹パッチにそろいの派手な肉襦袢。粋でいなせでかっこいい!といわれますが、「赤獅子」デビュー当時の各町の曳き子たちのいでたちは…。各自衣装はバラバラで勝手気ままだったとか。現代に比べて気候的にそうとう冷え込んでもいますから、綿入れ半纏なんか羽織っている人もいたようですよ。
ギャラリーが多い都市部では
まつりの演出がヒートアップ!
明治16年に完成した「唐津神祭行列図」ではすでに揃いの衣装になっていますが、この頃はまだ木綿。今のように上等な絹の羽二重を用いて豪華なものになっていくのは高度成長期に入る昭和30年代からだそうです。曳き子が曳山の上に上って采配を振る姿もまた、江戸時代には見られなかった演出だそうで、前出の田島龍太さんによりますと「祭りは人が支えるものだから、本質的には変わる。変わるということは、祭りが生きているということ」なんだそうです。
ひるがえって、祭礼と呼ばれるものが誕生した中世の頃を見てみましょう。生まれたばかりの祭礼は「神様」と「祀る人」だけでシンプルに成り立っていました。時代が下るにつれて、そこに「ギャラリー」が加わります。そのことによって祭礼は「祀る」ものから「見せる」ものへと変化してゆきます。特にギャラリーが多い都市部では、演出が次第にヒートアップしていきます。
いかにかっこよく曳いてみせるか
唐津っ子は燃えています
唐津くんちは典型的な都市型の祭りだといいます。刀町の「赤獅子」に続けとばかりに、ほかの町も漆塗りの曳山を次々に奉納。現在の華やかな曳山巡行のカタチが出来上がるのですが、一番のキモはそれをいかに「かっこよく」曳いてみせるかにあります。
もともと素材的に軽量であるこの曳山は、勢いよく曳き回すことが出来ます。だったら台の上のお囃子隊もコンパクトにして、さらにスピードアップさせよう。やんやと群衆がはやし立てるから、曳山に上って采配を振って見せよう。(これについては巡行中に電線をかわすという目的もあったそうです)見栄えよく衣装も揃えよう。奮発して絹の羽二重だ!京染だ! 「見せる」祭りは加熱を続け、それに伴って曳き子の数も膨れ上がっていきました。
衆生の喜びは自分の喜び
神様は太っ腹なのであります
そんな唐津くんちを、主役である神様はどう見ておられるのか、ちょっと気になります。田島さんの推察するところ「もともと神様はにぎやかなことが大好きで、衆生の喜びは自分の喜び。だから、自身の影は少々薄くなったとしても、この変化を目を細めて眺めていらっしゃるんじゃないでしょうかねえ」。そうですか、そういうことなら万事目出度しです。
文政2年(1819)、14台の曳山の先陣を切ってデビューした「赤獅子」は、5年後の2019年に生誕200年を迎えます。親から子へ、子から孫へとカタチを変えながらバトンリレーされていくこの唐津っ子の祭りを、唐津の氏神様はこれまでも、そしてこれからも温かく見守り続けていかれることでしょう。
うちん町も、
刀町の「赤獅子」に続け!
稼いだお金を自由に使えないのなら、ええい、曳山につぎ込んでしまえ!お上からぜいたくを禁止された唐津の町人たちは、刀町に続けとばかり、その有り余る財力で唐津神社に奉納する豪華な曳山を作ったのでした。その14カ町14台の曳山をご紹介しましょう。
われこそは、一番曳山なり!
①刀町「赤獅子」(1819)
唐津の経済の発達と共にできた新興の町で、藩の御用商人も多く、その豊かな財力をもとに一番曳山を奉納。神輿を先導して悪霊を払う獅子舞の獅子頭を題材に選んだ。
「赤獅子」と対でござる
②中町「青獅子」(1824)
「唐津の台所」といわれ、昔から野菜や魚の朝市が立ってにぎわった町。一番曳山が「赤獅子」なので、二番曳山としてはそれと対になる「青獅子」を奉納することに。
ウミガメは神様のお使い
③材木町「亀と浦島太郎」(1841)
木材、竹、木炭などの商いの特権を持っていた町。かつては松浦川河口に面していたので海亀を題材に選んだ。背中の宝珠は後に浦島太郎に替わり現在に至る。
武者といえば九郎判官義経
④呉服町「源義経の兜」(1844)
大手門に直結した城下町の中心の町。うちん曳山は神輿の警護役の武者の兜にしよう! やったら義経で決まり! 町内の具足屋による本格的な兜が完成した。
神様にはやっぱり鯛でしょう
⑤魚屋町「鯛」(1845)
魚屋の町が神様へのお供えとしてその題材に選んだのは魚の王様・鯛。秀吉の命で名護屋城築城の材木積運船頭として泉州堺から移り住んだ木屋利右衛門に始まる山内家は唐津を代表する豪商。
豪華な船は繁栄のあかし
⑥大石町「鳳凰丸」(1846)
14カ町の中でも最大の規模を誇った町。大きく豪華な船形のその曳山は、豪商たちが活躍し商業の中心地として繁栄を極めた頃の勢いを今に伝えている。
空飛ぶ龍がひと暴れ
⑦新町「飛龍」(1846)
大工職人が多く、有名な大工の棟梁や御用大工も住んでいた町。京都南禅寺の障壁画が飛龍のモデルだそうで、空飛ぶ龍の曳山は前後左右に躍動してまつりを盛り上げる。
目指したのは、№1の獅子頭
⑧本町「金獅子」(1847)
唐津城築城と共にできた伝統ある町というプライドから、①刀町「赤獅子」②中町「青獅子」を超える大きさと豪華さをもった獅子頭を目指したそうだ。
川中島軍記のヒーロー
⑨木綿町「武田信玄の兜」(1864)
唐津領内の鍛冶職の元締めや御用鍛冶屋も住み、鍛冶屋町とも呼ばれていた。④呉服町「源義経の兜」に次ぐ二番目の武者兜として、軍記物で親しまれた信玄が選ばれた。
信玄ときたら、謙信!
⑩平野町「上杉謙信の兜」(1869)
⑨木綿町と⑪米屋町と3町協議で「おたく信玄、うち謙信、そちらは酒呑童子で」という具合にテーマを決定したらしい。どれも当時の庶民に人気の題材ばかり。
恐くて御免!泣かせて御免!
⑪米屋町「酒呑童子と源頼光の兜」(1869)
当時庶民に人気だった物語のクライマックスシーンを再現。首をはねられて怒り狂う酒呑童子の血走った目に、泣かされた子どもは数知れず…。
珠に乗った獅子は珍しい
⑫京町「珠取獅子」(1875)
鰤漁や捕鯨業で莫大な富を築いた日野屋など名だたる豪商が活躍した町。明治7年までは着飾った京町小町が踊りを披露する「踊り屋台」を奉納していた。
火難除けのシンボル鯱
⑬水主町「鯱」(1876)
唐津藩の水軍の基地として船乗り(水主)たちを住まわせたのが町の起こり。鯱(シャチ)は火難除けの魔力を持つといわれる。屋根に取り付けられるのはそのため。
おめでたい龍頭の宝船
⑭江川町「七宝丸」(1876)
幕末から明治中期にかけて栄えた商家が多く、行列の先頭を進む一ノ宮一番山「赤鳥居」を供していた。明治9年、龍頭を持つ豪華な船形の曳山が完成。宝珠、軍配、打出の小槌などたくさんのお宝を満載。
唐津くんち曳山巡行スケジュール
11月2日 宵曳山 |
19:30…… 大手口 ~旧城下町巡行~ 22:00…… 唐津神社前 |
11月3日 御旅所神幸 |
9:30…… 唐津神社前出発 ~旧城下町巡行~ 12:00…… 御旅所曳き込み・神事 15:00…… 御旅所曳き出し ~旧城下町巡行~ 16:10 …… 市役所前から各町内へ |
11月4日 町廻り |
10:00…… 唐津神社前出発 ~旧城下町巡行~ 12:30…… 米屋町通り勢揃い 14:30…… 米屋町通り曳き出し ~旧城下町巡行~ 16:40…… 曳山展示場 |
※表示時刻は1番曳山を基準にしています。最後尾の14番曳山との時間差は1時間前後です。
ルールを守って楽しく見物しましょう!
危険な場所で見物しない/
危険な場所での見物は曳山巡行に支障をきたします。警察および曳山関係者の指示に従い速やかに安全な場所に移動してください。
座って見物しない/
巡行中の曳山は勢いがありブレーキもないので、時々道路の端に突っ込んでくる場合があります。その時に座っているととっさに避ける事ができず、大けがにつながる恐れがあります。
曳山の後追いはしない/
曳山が通過した直後に後ろからついて行く行為を後追いと言います。基本的に後追いは禁止されているのでやめましょう。